阪神大震災の犠牲者への追悼と、復興支援の御礼

阪神淡路大震災の被害は、被災64万棟、死者6434名でした。

阪神淡路大震災は、1995年1月17日から数えて、2015年1月17日で20年になります。

ここに阪神大震災の犠牲者の方へ心より追悼申し上げます。そして、その後罹災した私達へ、支援して頂いた皆様方に、心より御礼申し上げます。

あの日、激しく突き上げるような振動で目が覚めて、しばらく寝床から立ち上がることも出来ず、ただただ激震が収まるのを、まだかまだかと祈るように待っていたことを思い出します。

大震災が起きたのは、未明の5時46分で、まだ戸外は暗く、家の中を歩くのも危険で、まずは家の中の家族の安否を、大声を出して確かめました。

夜が明けても、新聞、ラジオ、テレビなどの報道を受信することも出来なかったので、震災地の真ん中にいる人は情報に孤立した状態でした。

被災64万棟、死者6434人と、報道で知ったのは、かなり後の事でした。当日の朝は、松葉博雄が体験した地震が、どれほどの大きな地震なのかは全く分からないまま、とりあえず、東灘区岡本から中央区三宮へ、車で駆けつけてみました。

最初にビックリしたのは、灘区を通過している時に見た火事と、ボウリング場の看板に使っていた、巨大なピンが道に転がっていたことです。

岩屋の交差点では、阪神高速道路は、壁のように横たわり、道路をふさいでいました。

まだ交通規制が始まっていなかったので、岡本から三宮までは、通常の時間で到着できました。

離れて見る、さんプラザビルは、異常があったようには見えなくて、近づいてみると、中層階で柱が折れて、重なり合っていることが分かりました。

センター街のアーケードは、崩れ落ちていました。

駐車場には入れなくて、車を路上において、誰にも止められることなく、さんプラザビルに入っていくと、ビルの中は、停電で真っ暗でした。

地下室に行って、保安室に行くと、保安室はまだ機能していません。被害の情報を得ることは出来ませんでした。

このような、阪神淡路大震災の始まりから、仮設店舗への移転、罹災した顧客へのサービスの提供などを、社長研究室の『阪神淡路大震災』で記載しています。

あの恐ろしかった大震災を、東日本大震災でも経験しましたが、東日本大震災では、阪神淡路大震災での復旧について、かなりの経験が活かされていると聞いています。

大震災から学ぶことは、立場によって違いがあります。何かのお役に立てばと、いろいろな罹災の状況と、復興の取組を知って頂きたく、20年の今年1月に改めて閲覧をお願いします。

2015年1月16日(金)